発酵から学ぶコモンズ(共有財)—これかの生とアート

糸島国際芸術祭2016糸島芸農 スペシャルトークセッション

起業家・情報学研究者のドミニク・チェン氏を迎え、「発酵」という切り口から、人工知能の発達が著しい時代における、人間にとっての生の価値、表現方法、コミュニティのあり方について、平場で語り合いました。


  • 日時:2016年10月30日(日) 14:00〜16:00(開場13:30)
  • 場所:松末権九郎稲荷神社拝殿(糸島市二丈松末)
  • ゲスト:ドミニク・チェン(株式会社ディヴィデュアル共同創業者/NPOコモンスフィア理事)
  • 聞き手:城一裕(九州大学大学院准教授)
  • 主催:糸島芸農2016実行委員会
  • 共催:中村美亜研究室


1. 発酵をめぐる旅

ドミニク:午前中、こちらに到着して作品を見てきました(→糸島国際芸術祭2016糸島芸農)。すごく特徴的だなと感じたのが、日常の、この糸島の町の空間の延長線上に、作品が備えつけられている。非日常の空間のなかで遮断するんじゃなくて、糸島という空間全体の中で、アーティストたちがレジデンシーを通して、微生物のようにちゃんと定着して、そこで相互作用を起こして作ってきたんだなということが伝わってきました。

それはやっぱり、東京で普段生活していて、ギャラリーとか美術館に行って見る体験とはかなり異質な作り方だなと思います。最初の作品(片山雅史他「思い出の壁、幸せの食卓」)の、金継ぎみたいな形でつなげられたたくさんの写真とか、まさにこの地元の歴史が一覧できるんだけれども、その上に新しい表現が覆いかぶさって、一つの作品に成り立っているみたいなところが、すごく「発酵」というテーマを表現しているなぁと思いました。

私は、普段は東京のIT企業で、スマホのアプリとか、ウェブサービスとか、情報技術を作っている人間です。一方で、NPOの運営もしていて、インターネット上で、クリエイターが自分の作ったものを他の人に使ってもらえるような仕組みを広めていたりしています。なので、最初にお断りしなきゃいけないのは、発酵食品の専門家でも何でもなくてですね、ただの愛好家なんです。愛好家が高じて、『WIRED』(IT系のカルチャーを紹介する雑誌)の編集長にある日呼び出されて、「チェンくんってさ、発酵食、好きだよね?」「はい、好きですけど。」「今度、取材行ってきてくれない?」って言われてですね、それで、京都と神奈川の蔵元を取材してきました。

これは京都の発酵食堂カモシカという食堂なんですけど、発酵食がメインの定食であったり、すべてが発酵食のメニューになっていて。これは、納豆のあんかけという、初めて食べたんですけど、本当においしくて。すごく創作的だし、モダンな発酵食品というのを作られているお店ですね。こちらは、創業150年ぐらいの澤井醤油店。樽の直径がこんなにでかいんですね。で、中を見ると、もう、発酵マックスみたいな状態。ちょっとこれ、写真でも伝わるかもしれないんですけど、沸々と本当に、微生物たちの鼓動が聞こえるようでしてね。京都はそういうところを取材して。

これは神奈川の湘南T-SITEという、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社さんが運用されているモールがあるんですけど、その中で食のファブラボのような施設があります。最新の機材、たとえばレーザーカッターとか、3Dプリンターとかもありながら、発酵食のワークショップもやっているところです。ここは中山晴奈さんというフードコーディネーターの方が、自分でこういうザワークラウトを作ってみたりしていて、それを、たとえばレーザーカッターで作った器に盛るとかですね、最新のテクノロジーと発酵食をどう掛け合わせるかみたいなことをやっています。

これは、茅ケ崎にある熊澤酒造さんという蔵元。この倉庫の中がすごくて、ちょっと白っぽいのが、足元に見えると思うんですけど、これお水じゃなくて菌なんです。何の菌かよく分からないって言っていたんですけど、とにかくいろんな菌がそこに住んでいて、その環境をすごく大切にする。その傍ら、ビール工場も、最新の機材で回していたりしていて、伝統とテクノロジーの良いとこ取りをされています。

これは京都にある菌塚。曼殊院というお寺の隣にあるんですけれども、菌の霊を祭っているんですよ。これ、書いてあることがすごくて、「人類生存に大きく貢献し、犠牲となれる無数億の菌の霊に対し、供養の念を捧ぐもの」と。この無数億の菌の霊を祭るって、これは世界広しと言えども日本だけだと思うんです。一体誰がこの菌塚を作ったかというと、化学薬品の会社の社長さんなんです。晩年、会社のいろんな商品を作るために何百億という菌を殺し続けてきて、それを悔い改めてですね、こういう菌塚を、由緒正しいお寺の隣に立てた。

もちろん発酵食って、単純においしかったり、すごく良い香りだったり、体に良かったりという、合理的なメリットはすごくあるんですけども、そこに留まらない。この菌塚なんて一種のアニミズムですよね。実際に菌は生きているからアニミズムというよりはトーテミズムに近いかな。擬人化みたいなことですよね。微生物に霊はあるのかどうか、そういうことは無視して、とにかくそこに見えないものの霊をリスペクトするという姿勢が見て取れます。

こういうことも含めて、この発酵食という文化がすごく面白いと思ったんです。この感覚って、ずっとインターネットの仕事とかしていると、普段は全然ないものなんですね。やっぱり機械とずっと付き合ってやっていると、こういう身体的な想像力がどんどん失われていく。だからこそ、すごく面白いなと。

今回取材したそれぞれの方に、どういう情報技術が欲しいですかというインタビューをしました。ちょっと抜粋的なんですけど、皆さん、こういうことをおっしゃるんです。便利さを担うというよりは、効率は悪いかもしれないけど、人間が手を動かしてやってみる、作ってみるということを支援してほしいと。これは発酵食堂カモシカさんがおっしゃったことですね。ザワークラウトを作っているFERMENT中山さんは、機械的なセンサーに判断を頼り切る技術じゃなくて、発酵食作りの人間の学びのプログラムを与えてくれる技術が欲しいとおっっしゃっていました。

熊澤酒造さんの五十嵐さんは、お酒を造る過程で、お米を蒸して麹を発酵させるところを、全部手の感覚で教えているので、僕はあえて、「それってセンサーとか使って、たとえば糖度とか塩分とか、いろいろ自動的に判断すれば、もっと効率良く作れるんじゃないですか?」って聞いたら、「それをやっちゃうと、他のメーカーといずれ味が同じになっちゃう」と、力強く答えられて、なるほどなぁと思いました。人の「この感じ!」みたいなものを、どうやってお弟子さんに伝えているんですかって思っちゃうんですけど、とにかく「この感じを分かれ」としか教えないそうです。言葉はほとんど使わない。「感覚をとにかく身につけろ」と。

「それで大丈夫なんですか」と聞いたところ、結局、五十嵐さんのおっしゃる熊澤酒造さんのお仕事は、1年先の商品をつくることではないと。100年間、今の味を残さないといけない。その中で微調整はするけれども、タイムスパンが、普通の、現代的な会社とは全然違うんだということを言われて、すごいはっとしたんです。生きている時間軸の尺度が、そもそも違うんだと。流行を追いかけることは逆に簡単だというような言い方をされて、ちょっと衝撃を受けました。僕みたいな、ITどっぷりな人にしてみると「あぁそうか!」と考えさせられるきっかけになりました。

僕、昔、こんな大きい糠床を毎日手入れしてですね、すごくおいしい漬物を作っていたんです。そのときに、なんか科学実験をやるような、ちょっと少年心みたいなものをすごく刺激されてました。そういう部分に面白みを感じていたのかなと、振り返って分かりました。僕は一緒に会社を作った人から、その人の家に代々伝わる50年ものの糠床を、200グラムほど分譲してもらって、それを新しく買って来た3キロの糠に投入したら、3日ほどで、その50年ものが、その3キロ全体を支配するようになって、すごくおいしくなった。でも、その50年物の糠床って、もしかしたらまた別の人からお裾分けされて、継承されたものかもしれなくて。起源を問うことができないほどの複雑なリッチさは、ちょっとロマンを感じるというか、萌えるなぁと。

今日のアートの話につながるかもしれないんですけど、糠床をケアしてる時の自分のクリエイティビティというものは、良い意味で希薄なんです。ときどき奮発して、フランスの地中海の塩を入れてみるかとか、ちょっとした面白さを入れてみたりするんだけれども、仕事をしているのは、その何百億という酵母だったり、乳酸菌なわけなんですよね。彼らの機嫌を取らないとおいしくできない。あとは、先ほども腐敗という言葉がありましたけれども、生と死が表裏一体で、上手くいくとすごく良い香りがしておいしいんだけど、ちょっとサボると腐敗してしまうという、その緊張関係が、すごくエキサイティングですね。


2. クリエイティブ・コモンズ

ここから、自分がやっていることと発酵にどういう関係があるのかということを少しお話しします。僕は元々、ネット上の著作権に関するNPOをやってきました。今の著作権には、保護する領域としない領域というものがあるんです。著作権とは、皆さんご存じかもしれないですけど、たとえば何か絵を描いたり文章を書いたりすると、自動的に著作権が付与される。放っておいても保護されるんですね。それは良いことじゃないかと思うかもしれないんですけど、他の人がそれを触ろうとしたときに、必ず許可を求めないといけない。インターネットがこれだけひろがった時代に一々許可を取るということをやると、文化全体の新陳代謝が遅くなってしまう。時と場合によっては、作者が認めるのであれば、開放してもいいじゃないかという考えが出てきたんですね。

そして、著作権が保護されている領域というのがどんどん肥大化しちゃって、相対的に、社会に還元されてみんなのものになる領域がしぼんでしまっている。著作権を構成する権利の種類もものすごくたくさんあるので、文化の発展のためにあるとされている著作権が、逆に文化を阻害しているんじゃないかという問題意識が生まれてきました。そこで、僕たちのNPOクリエイティブ・コモンズは、その保護されてる領域と保護されていない領域の中間層を作るということをやっています。

つまり、僕がこの絵を描きましたと言ったときに、この絵は、誰にでも無償で使ってほしいから、著作権を一番緩い状態にしておく。そうすると、世界中の人がそれを見たときに、「あ、これを自分の学校で使おう」とか、「本の中に使おう」というときに、一々連絡をしなくても使うことが可能になるんです。このクリエイティブ・コモンズのシステムは実は世界中で使われていて、ウィキペディアとかYouTubeとか、TEDとか、アメリカのホワイトハウスのウェブサイトなどでも使われています。今、インターネット上に、ざっくり11億個くらいの作品にこのクリエイティブ・コモンズのライセンスが付けられて公開されています。

これは一体どういうことかというと、もしかしたら、今日ここで話している内容をYouTubeにアップしたら、全然知らない人が英語字幕化してくれて、それをブラジルに住んでいる人が見て、その人が僕にコンタクトしてくるかもしれない。そういうことが、インターネットのおかがで全然ありえるし、普通に起こっている。それまではくっつかなかったものが、くっつけられるようになってきたってことなんですね。

アメリカで23andMeという会社があるんですけど、Googleの創業者の奥さんが作った会社です。尿のサンプルをこの会社に送ると、自分の遺伝的な祖先がどこら辺にいたのかということを確率分布で教えてくれるんです。これ、いろんな人種でやってみると、みんな結構混ざっていることがわかります。たとえば、この例では韓国の人がやってみると、意外と日本のDNAが多いとか、中央アジアのDNAが多いということがわかる。これまで人のアイデンティティというのは、見た目とか国籍とか名前とかで判断していたんだけれども、実はその裏にある、すごく複雑な交流や移動の歴史だったり、リアリティというものを、僕たちはこういうテクノロジーの力でもっと分かるようになってきた。

デザインの世界でも、スペキュラティヴ・デザインという考え方があって、可能な未来のスペクトラムは実はこれだけ広いんだよということを示しています。「おそらく来るであろう未来」と「可能な未来」の間にも「ありえる未来」というものもあって、その中で「望ましい未来」はどれだということを、デザインの力を通してやっていく。だから、時間軸というものも、多様になって、複雑になってきている。


3. インターネットと腐敗

城:今の話、いろいろと出てきた中で、結構前向きなところが多いけれども、一番最初にあったように、発酵は腐敗との、ドミニクの中で言うと生と死かな、その二面性を持っている。そういう中で、たとえば、最後のスペキュラティヴ・デザインだと、望ましい未来という風に言っているけど、望ましくない方の未来というものも、表裏一体ではあるんじゃないかなという風に思っていて。その中でクリエイティブ・コモンズとかは、あることによってできてしまう、腐敗というのがありえるんだとしたら、どういうことなんだろうというのを、ちょっと聞いてみたい。

ドミニク:クリエイティブ・コモンズがあるから起こる腐敗というか、多分、インターネットというものがこれだけポピュラーになったせいで起こる腐敗ということはたくさんあると思っています。それはたとえば何かというと、低レベルな創作物がインターネットには溢れてるという批判があります。これは人によっては捉え方が違っていて、僕は低レベルなものでも発信する人の数が増えるのは良いことだと思います。逆に、無断の盗用やいわゆるパクりといった不法行為は腐敗に近いですね。他にもSNSで他の人の幸せそうな状態の投稿をずっと見ていると、ちょっと気を病んでしまう現象、SNS疲れという呼び方をされるものだったり。Twitterは、同じ趣味の人同士が自由につながれるし、自由に話せることを可能にしているんだけども、その上で、ずっとケンカしている人たちとか。それは腐敗というよりは何か、コミュニケーションの失敗みたいなことなのかな。

オープンにつながれるようになったがゆえに、上手くいかないパターンも出てくるのは、それはまさに技術というものがそれだけでバラ色の未来をもたらすわけじゃないということかと。発酵も一種の技術だとしたときに、まさに、失敗すると腐敗してしまうし、お酒造りも、すごく丁寧に造っていても、ちょっとチューニングを間違えちゃうと、全部造ってきたのがパーになってしまうとか、すごく悲劇的な状況というのも起こりえるわけですよね。インターネットについて、すごくポジティブな話をしてきましたけど、同時に包丁みたいなものだから、使い方を間違えると大けがするし、大事にしたいものが失われていくのは、すでに起こっていると思うんですよね。

城:そういう意味では、分解能が上がったがゆえに、そっちの可能性が顕在化して、炎上とかがそうなのかもしれないんですけど、あるんだろうなという風に話を聞いていましたね。

ドミニク:たしかに、今、アメリカは大変なことになっていて、あと一週間ほどで大統領がどっちになるかということが決まりますね。アメリカには民主党と共和党という、二つの大きな政党があって、それ以外は存在しないに等しい。ピュー・リサーチ・インスティテュートという調査機関が20年分のデータを公開しているんですが、1995年の時点で、民主党と共和党員の間で合意できている政策の数が、実は半分ぐらいかぶっていたんです。半分ぐらいのことについては、右も左もアグリーしていたんだけど、それを、2015年までにもう一回見ると、パッカリ分かれていて、本当、数パーセントぐらいしか被っていない。

それを助長しているのがまさにSNSだったり、インターネットのメディアだったり、インターネットだけじゃなくてテレビだったりする。というのも、それぞれの人が、自分の見たい情報、聞きたい情報しか見なくなる。日本でもそういう経験あると思うんですけど、たとえばある政党を応援していると、Facebookとかで、自分の周りの友達も同じように、同じ志向性を持っているから、すごい盛り上がっているなって思うんだけど、選挙になると大負けして、「あれ?おかしいな」みたいなことが起こる。おかしいな、自分の周りではすごい盛り上がっていたのに、なぜ負けてしまったんだろう、と。それは「フィルターバブル」と呼ばれていて、それぞれの人が、自分が見たい情報だけが入ってくるフィルターの泡の中に住んでいるから、自分とは違う多様な人がその外にいるということに気付きづらくなっちゃうんですね。

それは人が悪いんじゃなくて、おそらく人よりも技術に原因がある。人に不可視の影響を与える構造のことを「アーキテクチャ」というんですけど、それぞれが居心地の良い世界の中に閉じこもるアーキテクチャを提供することで、IT企業は儲かってしまう。今日もFacebook開こう、今日もTwitter開こうってなったときに、あ、仲間がいっぱいいる、安心だ、と。そうすると、企業の収益もどんどん上がっていくわけですね。アクセスが増えれば広告収益が増えるので。今の状況の、全部とは言わないけれども、無視できない部分は、そういう無自覚な技術の使い方というのを、情報の世界でやってしまっているということがあると思う。それは、大きな意味で言ったら、情報社会が腐敗している部分かもしれない。


4. 乳酸菌の進化

ドミニク:WIREDの取材の後に、いろんなところで発酵関係のワークショップに呼ばれるようになりました。これは、木曽福島というところで開催された「はっこうのがっこう」というイベントです。木曽町は、岐阜県と長野県の狭間にある場所で、その昔、島崎藤村が、木曽路は山ばかりである、と書いているように、山に挟まれている本当に美しい町です。これは、小池糀店さんという糀屋さんで、まさに麹を作っているところをみんなで見に行きました。それで、先ほどご紹介した中山さん(FERMENTの代表)が、世界中の発酵食を2ヶ月で集めてきて、それを食べ比べながら農大の先生たちにお話を聞くというワークショップでした。

これはメキシコ、フランス、韓国、中国、スリランカ、アメリカ、トルコのアルコールだったり、ヨーグルトだったり。あとはロシア、フランス、モンゴルのチーズを集めてきたり、世界中の乳酸発酵の、ナタデココとか、キムチとか。すごいんですよ。世界中の発酵食の香りでこのぐらいのサイズの部屋が満たされていたんで、すごいムンムンする。何とも言えない香りで包まれたんですけど。

このワークショップは考えてみるとすごく贅沢なんですけど、農大からそれぞれ乳酸発酵の権威と、お醤油の権威と、お酒の権威の先生3名に来ていただいて、食べながら、その先生方に解説していただくという、夢のようなイベントでした。日本津々浦々から、南は佐賀から、北は札幌から、50名ほどお越しいただいて、発酵を食べながら勉強しようと。木曽町の行政も結構すごくて、町全体で、発酵推進条例というのを出していたりして。

ここに写っている岡田早苗博士で、彼は農大の名誉教授なんですけど、今は農大を引退されて、木曽町にある発酵研究所というところの所長をやられている方です。最新の機材に囲まれているんですけど、この研究室だけでフェラーリが3台ぐらい買えるそうです。今も現役で乳酸菌を調べて、英語で論文を書いたりしています。そのときに、すごく面白い話を、その場の打ち上げの場で、箸袋の裏側に、メモ書きで書いていただきました。

乳酸菌というのは発酵でエネルギーを得るというやり方をしているんです。発酵は、嫌気性代謝といって、空気を使わない。つまり、僕たちは今、呼吸をして、酸素を吸って、それを中で、糖分をエネルギーに変える。乳酸菌はそうじゃなくて、発酵というものをやるので、グルコースを分解してATPというエネルギーとラクトースというものを作る。だけど、調べていくと、実は乳酸菌の体の中に、クエン酸回路の痕跡が見つかったらしいんですね。酸素を使う好気性代謝の場合はこの回路がグルグル回ることで、呼吸をするときにエネルギーを作るんです。

呼吸の場合は36のATP作る。でも発酵の場合は2ATPしか作らない。それで、乳酸菌は進化の過程で、一時期、呼吸をしていた痕跡が残っているというんですね。だけど、今はもうそれを使っていない。それは何を意味するかというと、一回それを獲得して、僕たちみたいに、空気から酸素を取り込んで二酸化炭素を吐き出すということをどうやらやっていたんだけど、進化の過程の中でそれをやめて、捨てて、もう36ATPも要らないという風に進化した。2ATPで俺たちはいいと。それは、糠床とか、パンとか、糖質がたくさんあるところに行けば、そんなに大量のエネルギーは要らないということを選択したんです。

そんな進化のやり方ってあるんだって衝撃を受けたんですが、でも実は僕たちの体の中でも発酵しているんです。たとえば100メートルを思いっきり走るじゃないですか。最初は息で、フゥハァフゥってやって、筋肉に力を送るんですけども、そこで呼吸が間に合わなくなると、足がパンパンになるじゃないですか。あれは、呼吸が間に合わない、36ATPで間に合わない。足の筋肉の中で実は発酵が起こっていて、エネルギーと乳酸を作っています。乳酸が溜まるってよく言うんですけど、あれはだから本当に、まったく同じじゃないけど、糠床で乳酸発酵しているのと同じ原理で、2ATPを作って、足りないエネルギーを作り出そうとしている。

どうして僕たちの身体はそんなことをしているんですかって聞いたら、たとえば野生のライオンが目の前にいて、そいつに追いかけられたら、呼吸が間に合わないときに、使えるものは何でも使うよねと。その原理で、人間なんかは両方使っているんだけれども、乳酸菌の場合は一度獲得しているのに要らないって言ってさらに進化する。

さっきの「望ましい未来」の話で言うと、ともすると僕たちって、一つの未来を理想的な未来を社会の中で合意形成して、そこにみんなで向かっていくということを学校とかでも、無意識の中で教えたり、そう思い込んだりしがちですよね。いろんな若い子たちと話していると、「もう変えられないんだ、未来は」みたいな意見が結構出てきたりするんです。そうじゃなくて、乳酸菌のようにですね、一度得たものをたとえば捨てるという発想もありだし、未来は全然単線じゃないということを理解するのが大事だと思います。複数の線が同時に走っていて、その中では死んでしまう未来もあるだろうし、一緒に併存しながら生き続ける未来という線もあるだろうしという、そういうことを思わされたんです。


5. 創造性のモデル

実は、アメリカでも、クエン酸回路を使った創造性のモデルというのを作っている人たちがいます。誰かというと、MIT、マサチューセッツ工科大学のメディアラボという、世界中の異能者、異端者を集めている研究所があります。彼らは、学際性、つまりいろんな専門領域の人をくっつけたり、一人の中でいろんな専門領域を混ぜ合わせて、それで研究をするという最近の学問の潮流の更に先を行こうとしているんですね。

どういうことかというと、彼らはアンチ・ディシプリナリーって言っているんです。つまり、既にある専門性なんかにこだわっている暇はないと。人類社会は、今、解決できない問題だらけで、そんな既にあるものにすがってもしょうがないという意味なんですね。アンチ・ディシプリナリーとはつまり、メディアラボで研究する人は自分自身の学問をつくり出せということを奨励しているということなんです。

そんな彼らが最近打ち出している、創造性のクエン酸回路という図があります。ここにある「クレブス・サイクル」はクエン酸回路のことです。アートとサイエンスとエンジニアリングとデザインというのが、それぞれ別の方向を向いているんだけど、クエン酸回路のようにグルグル回ることによって、アンチ・ディシプリナリーを目指すことができるという。

これを、ある種のコンパスのようにですね、自分が今、何をしようとしているのかというときに、それがアート表現だとしたら、どういうことをしたら、サイエンスと結びつくのかとか、デザインの力を借りたらどういうエフェクトが生まれるのかとか、そういうことの共通言語を作るために、今メディアラボでこういう図を打ち出しているというのが、すごく、面白いと思いました。

彼らはですね、さっきATPという話をしたんですが、ATPって、エネルギーの単位ですね。それを彼らはCreATPっていって、創造性のエネルギーとしてCreATPがこの中で生成されると。それは社会のCreATPなんだということなんですね。まだ数学モデルで定義するほど厳密な話ではなく、飽くまで異なる領域の人たちを集めて、共通言語を作り出そうとしている。

さっき、情報社会が腐敗している部分って共通言語がないから、この人とこの人が本当はコラボレーションしたり、仲良くしたりできるはずなのに、そこが意識の壁などによって社会的に分断されているせいで、炎上したり疲れたり、疲弊したりして腐敗が起こっているっていう話をしました。それはたとえば、クリエイションの世界でも、もっと人々はつながれるはずだし同じ言語でしゃべれるはずだと。だから、共通言語をみんなで持つことによって、クリエイションを、まさに発酵させるという話なんですね。自分のリアルタイムな関心とすごくシンクロしているなと思って見ていたんです。

城:今、ネットの話とかをしたけども、そういう場合には何がその共通言語になりえるんでしょうね?単純に考えると、実世界で知り合い同士であったりすれば大丈夫とか、そういうことなのかもしれないんだけど、そうじゃない部分で、いやいや、まだ見えていないけど、この辺りがその共通言語の鍵になるんじゃないかみたいなのがあったりするのか。

ドミニク:基本的に、いろんな方法があるとは思うんですよ。たとえば言葉のコミュニケーションをもっとスムースにしてあげる方法を考えるということを考えることもできるし、逆に言語を一回捨てて、言語以外の方法で、人々がインターネット上でコミュニケーションをすることって何か考えられないかとかということも可能性がたくさんある。城さんがおっしゃるように、リアルに会って話すという方向にもっとフォーカスさせるとか。いろいろあると思うんですけど、言語の難しさというのは、オンライン・コミュニティを作っている人間からしてみても、限界を感じている部分もあって。僕は言葉の力はすごく信じているんだけど、それがこう、何十万人、何百万人という人が一斉に話し始めたときに、どんどんどんどん、ズレていってしまうところがある。そうじゃなくて、もっと、たとえばそれこそ、城さんの専門で、音とか、音楽とか、あとはたとえば他の感覚、触覚とか……

城:匂いとか。

ドミニク:匂いとか味とかというものを作る。そのことで、言語を必要としないで、一緒にいるんだという共感が生成されたり、一緒にコラボレーションの始まるような場づくりができたりとか。

城:その辺りに、単に昔に戻るとかではなくて、別種のテクノロジーの使い方みたいなものとかが、上手く入って来うる。

ドミニク:そうですね。それって、一体なんだろうというのが、現在進行形で考えていること、やろうとしていることはあって。

城:その辺の話を、少し。


6. 心臓ボックス

ドミニク:そうですね。ちょっと発酵からは少し遠ざかってしまうかもしれないんですけど。これは仲間の共同研究者が作って、今は一緒に研究している「心臓ボックス」というものです。この女性が手にしているのが「心臓ボックス」というデバイス。これは箱の先に聴診器が付いていて、人の心臓のところに聴診器を当てると、この箱が鼓動と同期して、ドクン、ドクンと動くんです。それを、自分で持つことで、自分の鼓動を手で感じることができる。もしくは、目の前にいる人の心臓に当てると、相手の心臓の鼓動を感じることができる。

それを初対面の人同士でやるワークショップというのを彼らはやっていて、そうすると、すごく面白い反応が返ってきて、人によってはたとえば、赤ちゃんを初めて抱っこしたときのことを思い出したとか。これを、高校生とか大学生とかみんなにやらせていったら、凶悪殺人とかが起こりづらくなるんじゃないかとか。この箱の電源切るときにすごく切ない気持ちがしたとか。

人間の知覚が興味深いのは、基本的に錯覚に基づいていて、それを情報によって、良くも悪くも操作できてしまうということなんですね。一定の方向に人を向かせるために、制御するということができてしまう。

この心臓ボックスの場合は、ただ心臓の鼓動を増幅しているだけなのですが、それをやるだけで、それこそさっきの微生物に対するアニミズムじゃないけども、その人の心にちょっと振れている実感が生まれたり。その意味というのがその人の中に生成されていって。これってなんかちょっと今の僕たちが日々使っているスマホとかコンピューターと、かなり違うように思えるんですよね。

城:それこそ、36のATPが2のATPでもいける、という乳酸菌的なものかもしれないですよね。

ドミニク:あぁ、そうかもしれないですね。情報量はめちゃくちゃ少ないけど、そこから自分で、生成する意味というのが、もしかしたら同等かそれ以上あるのかもしれない。だから、これは言語を一切介さないんですけど、これをやるだけで、身体的に意味というものが、その人の中で生まれるというのがすごく面白くて。

これすごく面白くて、緊張する場面ってあるじゃないですか、たとえば人前で話すときとかは、心拍数が上がるんですよね。Appleウォッチとかで、心拍をリアルタイムで見ていると、僕平常時が60なんですけど、そういうときに、この箱を持ってAppleウォッチを見ていると、どんどん下がっていったことがあるんです。自分が、ドクン、ドクンというのを、外から見ている感覚があるので、そうすると別に何も頭の中で、「落ちつけ、落ち着け!」とか意識的に思わなくても、自分の心臓を触っているだけで、Appleウォッチを見ていると、どんどん下がって平常時に近づいていく。

だから、ここには自分に対するセルフ・フィードバックという話もあるし、他者のものを触れると少し親密な関係性を勝手に感じちゃうという話も入っている。この共同研究では、意識ではなく無意識に働きかける、言葉に依存しないコンピュータのモデルというのを、ここから抽出して、全然違うものを作るためのガイドラインを作ろうとしているんです。

城:発酵の特徴としてドミニクは、糠床のときに、継承と、お裾分けと、混ざるのと、生と死があるという話をしていたんだけど、この心臓ボックス、直接じゃなくてもいいですけど、たとえば継承とか、お裾分けって、どういう風に考えることができそうですか。

ドミニク:そうですね、それはいい問いですね。これは心臓ボックスを研究する上での、一つの問題提起なんですけど。西洋型の人間観って、個人というものをいかに最適化するということを考えてやっている。日本型ってここで言っていることは、個人ももちろん大事なんですけど、よりその人が属している場というもの、場の中でそれぞれがどういう役割を果たせて、その場が継続できるかということに、より意味や価値を見出す、そういう文化なんじゃないかと思っていて。

すごく分かりやすいのはたとえば連歌会ってありますよね、俳諧の連句の世界で。こういう場で、30人ぐらい集まってですね、最初の人が五七五で、最初の発句をして、それをもう、2回も3回も30人がどんどんどんどんつなげていくというのをやっていく。それは、田中優子さん(法政大学の総長、江戸研究の権威)の言葉を借りて言うと、何かを作ろうとしていないんです。作品をみんなで作るぞという意識は全然なくて、その場でつながっていく、つながっていくその様を「のり」って言うらしいんですけど、のりが良いプロセスを楽しんで、つながっていくことに集中する。

それは一種の宗教的な儀式のようでもある。その場には、神棚が置いてあって、その神的な存在に捧げるために、そういうアクティビティを行うという感じですね。何かを、ここで捻り出したものを記録して歴史に残すぞという感じじゃないんです。それって、実はその継承という話からしてみると矛盾しているかもしれなくて、継承しなくてもいいじゃんという、一回限りのものがそこで登場すれば、それでいいじゃないかという、すごいクールな見方でもあるんですよね。

城:でも、今の話もめちゃくちゃ糠床とは近い感じがしますね。というのも、糠床の中の乳酸菌というのが、たとえば連歌会のそれぞれの人であって、その継承というのも、その連歌会をしていた人たちの何人かが抜けて、別なところでの連歌会というのが行われるというのは多分継承だし、それこそ、違う連歌会同士が一緒に何かするのは、糠床を混ぜるみたいな。という風に取っていくと、今のドミニクの言っていた、個々の作品を生み出すわけじゃなくて、場を作って維持することがという話は、発酵のメタファーからも、非常に考えやすいなと思って。


7. 糸島芸農と発酵

その中で、この糸島芸能の実行委員会の方たちにもちょっと伺ってみたいなと思うのは、作品そのものを、すごいものをどんどん見せていくというよりも、この「発酵」というのをあえて言っているところも踏まえて、この場づくりというか、全体が、たとえばさっき山に登ったときに、一個一個がどうこうというよりも、それ全部で、流れていく、足場の悪い道を歩くのも含めての、一つになっているような感じがして。

松崎:僕にとってはなんですけど、ジェネレイティブ・デザインというか。アーティストは変数的な感じで、僕らはこの空間とか、場とか、流れをつくって。その中で毎年違うアーティストが来ますけど、そういうアーティストがどういう風にするかまでは、もう僕らにはコントロールできないし。それが逆に、思わぬ効果が出たり、腐敗しちゃったりとか……

会場:(笑)

城:たとえばズッキーニが、輸入のが、ちょうどスーパーで売っていた。じゃあこれを糠床に入れてみようみたいな感じだったりするんですか? その、知らないアーティストというのは。

松崎:そうなんです。全然知らない人が、もう逆に提案してきて、やりたいって言って、僕らは当日まで、本当は何するかを分からない。今回のドミニクさんも、お呼びしたけどどういうお話になるかまでは僕らはまったく分からないわけですけど、そこで、思いもよらない、すばらしい出来事が起きて、発酵になったり。「あれ?」というときもあるんですけど。

ドミニク:腐敗してるのかも……

会場:(笑)

松崎:今はもう、発酵しまくっています。

ドミニク:あぁ、ありがとうございます(笑)。

大澤:近代西洋型人間観と日本型人間観に当てはめると、アートプロジェクトとかフェスティバルをやっていく中でも、ディレクターがいてキュレーターがいて、スタッフは役割分担をできていて、指示命令系統がすごくガチっとできているものもあれば、糸島芸農みたいに、もう何もよく分からない、誰が、何がどう動いているのかもよく分からないんだけど、そのとき、その現場にいる人が、自分の役割を、これやらないとやばいなぁ、山道、誰も歩けないから、ちょっと俺スコップ持って入るわ! みたいなことが起きているみたいなこととか、すごく当てはまるような気がしますね。

ドミニク:今回、インドからのプラシャンタ(Prasanta)さんが、一ヶ月滞在して、水彩画で糸島の風景のあっちこっちをたくさん描いているんですけれども、パッと入ったときに、色彩の感覚がすごくインドっぽいなって。これはインドの風景なのかなって一瞬思ったんですけど、近くでまじまじと見ていると、糸島の朝7時ぐらいの風景であることが段々分かってくる。彼の話の中で、やっぱり彼は写真を一切使わないで、そこで見たものを糸島の色にするために、2週間ぐらいかかったという話があって。

順応するとか馴染むみたいな。その感覚って、非常に発酵的だなと思ったりもしたんですよね。だからなんか、やっぱり時間をここで過ごしているって、レジデンシーも一人とかじゃなくて、すごくたくさんの方が、ほとんど全員レジデンシーでやられているというところが、まさに、発酵モデルだなぁとすごく思いました。

城:そういう意味では、時間は、かなり大事なメタファーというか、要因になったかもしれないですね。

中村:今その糠床の話とか、場のお話で思うんですけど、主客の転倒というか、混ざるというのがあると思っていて。たとえば、ズッキーニで言うと、ズッキーニを糠に漬けたときに、ズッキーニの中に菌が入り込んで、そこで何かが起こるわけですね。そのときって、元がどっちでどっちがというのじゃなくて、転倒するようなところがあるけど、糸島芸農や、自然を使ったアートプロジェクトで、上手くいった場合にもそういう転倒が起こる。

大澤さんがよく、コンテクストとコンテンツの話をしているときに、どっちがコンテクストかが変わっていくという話をしていらっしゃるんですけれども。たとえば、ここだったら山があって、それがコンテクストで、そこに作品があるという風に、美術愛好家は思いがちだけれども、実はそれは逆なんじゃないか、地元の人が見ると変わるという。

大澤:そうそう。それこそ、おじいちゃん、おばあちゃんが参加して作った、松末の古い写真なんかもそうだと思うんですけども、おじいちゃん、おばあちゃんが持ち寄った写真と、その上に描かれた絵は、どっちがコンテクストでどっちがコンテンツなのかって、よく分からない。そこが面白かったりするわけですね。

中村:発酵することによって、主客というか、自他が崩れていくと同時に、どっちが地でどっちが図かというのが分からなくなっていく。それによって、作品を見に来た人も自然を見ることができるし、自然を見ている人も、作品を見ることができる。だから、たとえば美術館とかだと、作品を見る目を持っていない人にとってみれば、作品ってただの物なんですよね。何も表れてこない。そこには、愛好家しか近寄れない何かがあるわけだけども、こういうところに来た場合に、逆もありえて、それがきっかけになっていくんじゃないかなと。

ドミニク:元々ある家とか山の見え方が変わっちゃうということですよね。

中村:知覚が錯覚を起こしていくという話につながっていくような気がします。

城:そういうときに、アーティストというか作家としては、それは、どう思うんですかね。

松崎:アーティストですか?

城:旧来の、さっきの西洋と日本のみたいな話で言うと、きっちりディレクトされて、キュレーターがいて、ギャラリーが用意されて、ここに作品をインストールしてくださいという風な形でのアーティストと、この糸島芸農での今の、作品とその背景というのがともすると逆転すらしうる、そういう状況とは、かなり違う状況だと。同じ作品を作るという場合でも。その扱いが変わってはくる。多分、作家によって全然違うと思うんですけど。どういう風に思うのかというのを、実際に作家にお聞きしたい。

牧園:そうですね、僕も、一応、作家としては参加してはいるんですけど、さっきの話に当てはめると、やっぱりディレクターがいて、キュレーターがいてとかという普通の制度とはちょっと違うので、僕自身も、運営をしています。ミーティングいつやりますかとか、これ決めなきゃとか。本来であれば、僕はそういうの全然できないんですよ。でもなぜか、なんか僕がそれをやっているという状況で。

それに対して別に口出しする人もいないし。考え方によっては僕にそういう能力がないけれどもやれているということ自体が、僕自身が面白いなぁというところで、それが、芸術祭とか、作品に対してどういう風に影響しているのかというのまでは。今話を聞いていて、初めてどういうことなんだろうって考えたんですけど。

ドミニク:その役割というのが、何年経験があるからやっているんじゃなくて、いろんな事の成り行きとか偶然とか、致し方ないこととかも含めてやって、やる中で、その役割ということが、まさにジェネレートされている、生成されていくというのってめちゃくちゃリアルだと思うんですよ。たとえば、その土地のことを知らないけど、すごく有名なディレクターをゲストで呼んできて、でも忙しいから一ヶ月に一回しか来られないみたいなパターンとかって全然面白くない。実際そういう話があったという話じゃないですよ(笑)。

その反対のパターンって何だろうと思ったら、何でやっているのか分からないけど、でもめちゃくちゃコミットしていて、agency、つまり主体的能動性というか、当事者性とも言い得ますが、自分がそこに関与しているという感覚がすごく感じられるので、それこそがリアルかなと思うんですよね。

城:正直、今日来るまで、どうなのかなってよく分からないところがあって。ともすると、旧来というか西洋型のディレクターがいて、キュレーターがいて、というモデルの劣化版みたいなアートというのもすごく多いような気はしていて。実際自分も多少直接それっぽいのに関わったりして、これやる意味あるのかなみたいに思ったこととかもあるんだけど。来てみて、最初、そのモデルから見ようとしたんだけど、そういうことではないんだなという感じが、順番に歩いてきて、山に登って、これは何なんだって上手く言語化できないけど、何なんだろうねという話をドミニクとしていたんですよ。

結論としてはこの話ができて腑に落ちているし、いわゆる「地域アート」みたいな言葉だと、西洋のモデルの劣化版みたいに取られる部分もあるけども、そうではない、ある種の、ドミニクがこれからやろうとしているところともつながる、ラディカルなものになりうるような、糠床というか、ここからより発酵が進むような状況のようにも、ちょっと思えてきました。


8. キューレーターは必要?

ドミニク:先ほどの木曽町に行ったときに、蔵元さんとか麹のお店の方とか、いろんな人の話を聞いていて、共通項をあぶり出していくと、物の都合に人間が合わせるんじゃなくて、主客が反転してしまって、自分が糠床を食べたいからやっているんじゃなくて、糠床の言いなりになってひたすらかき混ぜさせられているみたいな状況にいつの間にかなっているとかというのも感じられるんですね。

あとは、当事者になるということが、蔵元さんとかでもすごく主張されているのが印象的で。中善さんという蔵元があるんですけど、おいしいお米を普段は米農家さんから卸してもらうんだけども、おいしいお米をつくるということはどういうプロセスなんだろうということをお酒造っている人も知るべきだ、っていって自分たちで有機栽培の自家栽培をしています。それはかなりエクストリームな例で、みんなができることじゃないんですけど。

やっぱりその物の都合に人間が合わせるということに近い気がするんですけど。松崎さんたちがやっていることって、たとえば、言うことを聞かないアーティストをマネージするってやっぱりそれなりに大変だと思うし、みんなわがままなことばっかり言ったりすると思うんですが、それをコントロール、制御するというのじゃないやり方をされている感じがして。上手く言語化できないんですけど、すごく大変だけど、楽しそうに大変だなって。

それぞれの人が、それぞれの場所で、生き生きとできるかというところに腐心されていて、コンセプトよりも手を動かしていることが先行しているような印象ですね。それで結果的に、西洋型じゃないものが生成されてきている場になっているのかなというは、今日、率直に思ったことですね。

中村:この糸島芸農のミーティングに来るようになって、時間の流れが全然違うことに気がついた。決定の仕方が全然違うんですよ。最初は、この芸農のメンバーがユニークだからだと思っていたんです。でもどうもそうじゃなくて、この松末地区の人たちの時間の流れとか、あとその決定の、自治会の人たちの決定の仕方とか、おじさんたちの決定の仕方というのが、どうも松崎さんとか、牧園さんとか、それから最近、すっかり二丈の住民になっている大澤さんとかに乗り移っているような気がして。多分、本人はあんまり自覚がないと思うんですけど。

松崎:そうですね。あんまり、自覚がなくて。多分、自然にそうなってしまったというか、言うことを聞かないというよりかは、制御するという考え自体がそもそもなくて。どう自律的に生き生きとさせるかというのが、僕たちが一生懸命やっているのはこれなのかなと思いました。

牧園:数日前にキュレーターを呼ぼうと言っていて、やっぱりやめようかみたいな話になって。

松崎:夜中の1時ぐらいに牧園くんとずっと作業しながら、こんなんでいいのかなとかって。違うんじゃねぇの? もっとプロっぽくした方がいいんじゃねぇの?

会場:(笑)

松崎:キュレーターとか呼んでみようか? いやぁ……とか言って。

城:何で「やっぱりやめよう」になったの?

牧園:何ででしたっけ? なんか嫌がるんじゃないか、みたいな話になりましたよね。アーティストが嫌がるんじゃないかみたいな。

数人:あぁ。

牧園:どういうところで嫌がるかというのは、あんまり覚えてないですけど。

城:キュレーターも嫌がるとも思う。

牧園:とも思いますよね。どうキュレーションしていいか分からないと思うんですよね。予算があって連れてきたら、ある程度はコントロールできるとは思うんですけど。そもそもが予算がない中で、一人分の予算を立てて、一人のキュレーションをするためにキュレーターを呼んだりすると、まったく意味がないからですね。そういったところで、現実的じゃないというところもありますし。それと他のフェスティバルとの違いで、キュレーターとアーティストの関係をどう成立させるかというところで、そもそもやっぱり成立しないからです。なんかそういう話をしていたと思います。

城:面白い。

ドミニク:あんまり見たことないですよね。この感覚、この感じを、ぜひ、今後もキュレーターを入れずに続けてほしい(笑)


9. 「AI」ではなく「IA」

最近、僕は能の謡の稽古を今年6月ぐらいから、安田登さんという能楽師の先生のところでやっていて。隔週で火曜日の朝8時から稽古をしてやっているんですけど。稽古そのものは1時間くらい、残り1時間は雑談で、いろいろと教えてくれる楽しい学びの場になっています。

そこでまさに中村さんがおっしゃっていた時間感覚が、日本の伝統芸能の中だとおかしいことになっていて。能楽師の方って鼓を買いますよね。あれ、すごく高くて。新品で、安くても数十万、良いものを買うと数百万ぐらいする。それだけじゃなくて、買っても30年間、音が鳴らないらしいんですよ。どれだけ、毎日叩いても。でも毎日叩かないと音は永遠に鳴らない。良い音が出るのが、50年ぐらいらしいんです。

会場:(笑)

ドミニク:そうすると、たとえば30歳のときに新しいのを買ったら、ちゃんと使えるようになるのは80歳。それ、誰のために買っているんですかって聞いたら、もはや自分の弟子のために買っているようなものだ、という。自分の代で良い音を鳴らそうとか、微塵も思えないシステムになっている。その時間間隔って、先ほど熊澤酒造さんが、100年後に今の味を大きくぶれることなく残し続けられるかということを考えていたりすることに似ている。

やっぱり個人に留まることって、自分がいつ死ぬんだろうとか、いつまで生きられるんだろうみたいな、自分の中で完結する話じゃないですか。でもそれが、自分がたとえば、極端な話、死んでも、それを受け継いでくれる弟子がいるとか、仲間がいるとか、子どもがいるという、その信頼感の中で生き続ける、生きたり、活動するって、別の時間軸に生きるって言うことだと思うんですよね。発酵とかもね。

もしかしたら自分の孫がそれを受け継いでいるかもしれないし、全然知らない人が受け継ぐかもしれない。もしくは滅んでしまうかもしれない。分からないけども、その可能性にコミットする。そういう感覚を、現代の情報技術を使ってもっと復活できたら面白いし、まさに、社会を発酵させる上で大事なんじゃないかなって思ったんです。

城:鼓の場合は、基本的には受け継いでいく?

ドミニク:そうですね。お師匠の。

城:弟子って認められたら、お師匠が与える……?

ドミニク:そうですね。与えるらしいです。僕はまだ受け継いでいないので、感覚的にまだ分かっていないんですけど。

さっき松崎さんたちがお話した、作ろうと、制御しようとしないという話と関連して、人工知能というものが、我々人間を支配するんじゃないかみたいな議論というのが、世の中でたくさん出ています。それは、たしかにそうだと言える部分もあれば、単純にそうじゃない部分というのもあるので複雑なんですけど、とにかく、そういう考え方がある。実際、人工知能は、人間のためにいろんな答えやヒントを提供してくれるわけですね。未来予測をするためとか。良いものなのか悪いものなのかというのを人間の代わりに判断してくれるもの。

実はそれとは別に「インテリジェンス・アンプリファイア」という発想がある。アーティフィシャル・インテリジェンス(人工知能)の「AI」を反転させたイニシャルで「IA」と言うのですが、人間の判断力とか知性というものを、技術を使って増幅してあげる。常に対極しているわけじゃなくて、ときには相互補完なんですけど、今はAI>IAという不等式を、もっと人間側を支援しようと、人間側の能力をパワーアップさせるために技術を使おうという話があって。そこで二つのパラダイムの話が出てくる。

AIは、状況をコントロールしようというわけですね。なるべくリスクを減らそうと。失敗を少なくしようと。誰がやっても失敗がないようにシステムを動かそうという発想ですね。そのためにコントロールする。

でももう片方の、人間側の能力を増幅させようというものは、リスクヘッジは必ずしもしないわけで、たとえば、僕が糠床を作っているのを、AIが、全部、「それはまだ食べられない」とかという風に、判断をバッと送ってくるんじゃなくて、たとえば僕が自律的に判断するために必要なだけの情報だけを適切なタイミングで提示してきたら、僕がそれを判断することで、僕の中の感覚というものが失敗や成功を通して鍛えられていく。

それは一種のコミュニケーションだと思うんですよね、糠床との。匂いを嗅いだり、夜中にそっと耳を当てたりすると、ときどきプツプツって聞こえたりする。「わぁ、すげぇ、発酵してる!」とかね。さすがに話しかけたりはしないですよ、糠床に(笑)。

城:してない?(笑)

ドミニク:一回だけしたかも(笑)。とにかく、材料を入れて反応を見てという繰り返しは、コミュニケーションだと思っていて。それは、失敗を回避することではまったくなくて、失敗するかもしれないけど、成功したら予測できなかったものが出てくるという全然違う発想。今までの社会ってやっぱりコントロール型だったと思うんですよね。

でもそれだと問題が解決できないという話が、さっきのメディア・ラボのクエン酸回路の話だったりするわけで。もっと人がリスクをとってコミュニケーションを図るということをやっていかなきゃいけないよねという議論が、実は情報技術の世界でも、わりとある。

城:その、インテリジェンス・アンプリファイアって、そのものがある種の糠床のようなもので、そこにニンジン、キュウリを入れると、キュウリであるしニンジンであることは変わらないんだけど、違うものになりうるというか。たまにそこに、食品だけどそもそも合わないものとかを入れると、それは何にもならないとか、腐敗する場合もあるけども、だからと言って、そこだけ取り除けば、糠床全部がだめになるわけではないみたいな……

ドミニク:面白いですね。だからたとえば、僕、今、作りたいなと思っているシステムがあるんですが、雑談を、ひたすら気持ちよくさせてくれる人工知能システムが作りたくて。何かというと、僕としゃべってくれる人工知能を作りたいわけじゃなくて、僕が城さんとだったら城さんと、より気持ちよく雑談できるように、ずっと会話を聞いてくれていて、たとえば僕がなんか、ずっと同じ言葉しか言わなかったら、そっと突っ込んでくれて、「それってこう言い換えられるよね」みたいなことを一言言って、「あぁ、そうそうそう、ありがとう! でさぁ……」というふうに続けられる、みたいな(笑)。

それを使えば使うほど、「城さんさぁ、今言っていること、5年前も同じこと言っていたよね」みたいなことを、ふっと言ってきたりしたら、「おお!たしかに!で、そのとき他にどういうことを言っていたっけ?」というように、記憶の時間をかき混ぜてくれるようなシステム。

僕は城さんと話してすごくいつも元気になるのは、城さんが言ってくれることを通して、さっきのCreATPを、自分の中で多分、分泌しているんですけど、それは何か、サイエンスの世界で、完全に解明はされていないけど、感覚的にはあると思っていて。だからそういう部分をどんどん支えてくれる技術がほしい。


10. 場所と当事者の限定性

中村:この辺りで、フロアの方から意見や感想をお聞きしたいと思うんですが、いかがでしょうか?

フロアA:糠床や発酵って、良いイメージというか、結構ポジティブなイメージがあるなぁと思っているんですけど、ひっかかるところがあって。一つが、糠床とか、お酒の樽とかって、すごい場所が限定されているじゃないですか。枠が、ちゃんとあって、丁寧に守られて。場所が限定的だなって。たとえばSNSとか、広い範囲だったり、身体的に遠い人たちとは、なかなか想像しにくい感じがあるなぁというのが一つあって。

あともう一つは、似たようなものなんですけど、先ほどの「当事者であること」というのって、当事者じゃない人は、なかなか変えにくいなという気がしていて、たとえば、お裾分けという形であれば、当事者に、ひょって入ることも可能かもしれないんですけど、そうじゃない人からは、フィルターバブルの状況はなかなか変えにくい気がしていて。技術とかがあれば、何か変わってくるのかなという気もするんですけど、その辺、場所の限定性と当事者の限定性みたいなものに対して、何か、面白いお考えがおありだったら。

ドミニク:すばらしいご質問、ありがとうございます。

そうですね、まず、場所というか枠というか、限定された空間の中ではできるけれどもというところで言うと、たしかにそうで。人間の認知的限界を表す値として、よく言われるのが「ダンバー定数」という数字があって、150ぐらいだって言われているんですけど。それは何かというと、人間が一度に安定的にマネージできる人間関係の数が大体それぐらいだって。ロビン・ダンバーさんという社会学者がいまして、彼はサルとかゴリラのコミュニティと人間を比較すると、人間は大体150だと。

たとえばFacebookとかでも、人によっては1000人、2000人友達がいるみたいなときに、そういう人たちの情報を受け過ぎちゃうと、どういうことになるんだろうとかということはまだよく分かっていない。すでに、我々が処理できるコミュニティの限界は超えちゃってるのかもしれない。Twitterとか、SNSというものが、知らない人同士を必要以上につなげたことによって、衝突させてしまうというところはあるのかもしれない。

たとえばなんですけど、逆転の発想で、一度に対峙できる人の数というのが限定されているネットワークとか、もしくはそういう風に、ひろげ過ぎないように支援してくれるサポートシステムとか、どんどん拡大する方向じゃなくて、拡大し過ぎているものを、もっと狭くするという発想もありえるのかなって、今、ご質問を聞きながら思いました。

当事者については、本当に僕的にも旬な問題で、たとえば日本社会の危機みたいな話って、専門家の方たちと話していると、必ず「お先真っ暗!」みたいな感じになってくるんですよね。そんなに問題だらけなのかと。たとえば大学の先生が、そういう問題意識を学生たちに伝えられないっていったときに、僕なんかは、いや、その危機意識を言葉で共有するって不可能だって思うんですよね。だって、自分が体験したことのないリアリティって、頭で理解できても、腹落ちもしなければ、本当の当事者意識って生まれようがない。

これも一種の逆転の発想なのかもしれないんですけど、僕はたとえば学生たちには、自分だけの危機意識というのをあぶり出してもらうワークショップをやっています。超パーソナルなストレスや苦痛をすごい深堀りして、みんなの前で教室で共有してもらったりすると、めちゃくちゃパーソナルだけど、すごく深い悩みとか、苦しみみたいなものってすごく共感を生むんですね、その場で。それ分かるわ、みたいな。気づいてなかったけどそのつらい感覚分かるわ、みたいな。

つまり、n=1の世界から生まれた問題意識が社会に伝播する経路があるんじゃないかと思っているんです。それをたとえば3ヶ月間ぐらいグルグル回していくと、社会の、たとえば家族観のコミュニケーションが喪失されているみたいな現象に対して、こういう提案ができるという話が出てきたり。トップダウンで、「今、社会はこんなに問題がありますから、皆さんどうにかしましょう」じゃなくて、その人が何の当事者になれるかということを、肩書きとか、勉強している専攻とかじゃなくて、その人本人の来歴に向き合うと、自ずとその人の専門性が生成される。これはすごい面白い現象だと思っています。

さっきのだから牧園さんみたいに、ディレクションとかやったことないけど、でもやっているのは何かがフィットしている必然性がもともとあったんじゃないかと思います。

城:何か後者の問いに対しては、ドミニクの話とは違うかもしれないですけど、できるであろうと思うものは、糠漬けとかも、おいしい糠漬けを食べる機会とかがあって、それがきっかけになって、自分でもじゃあ、糠床をつくってみようかなみたいになる場合もある。たとえば糸島芸農に引きつけて言えば、ここで作られた作品というのが、明らかに、普通のいわゆるディレクター、キュレーターがいる中では絶対生まれないような作品というのができたとした場合に、糠床から野菜を取り出して他のところに持っていくように、いわゆる普通の美術のところへそれを持っていって、何なんだこれはみたいになることによって、枠というのを広げていくみたいなことはできるのかもなぁと。

この人は何なんだろうというような人が、既存の文脈のところに行って、「何でそうなったの?」みたいなところから、「いやいや、こうこうこうでね」という風に、100グラムの糠が3キロの新しいのをあっという間に変えるみたいなことが起きたりしたらいいなぁと思いました。

フロアA:たとえば、この場所とか、あるいは遠隔地であっても、同時多発的に醸されていくというわけじゃなくて、時間軸みたいなものを長くとって、徐々に、その人なりの醸され方みたいな感じに。時間軸をもう少し遠くに捉えるということですよね、今のお話。

城:そうだと思います。

フロアA:その場でパッと会って、話して終わりみたいな感じに、ならないやり方。ありがとうございます。

11. 子孫のために木を植える

フロアB:感想なんですけど。僕、木工もやっていて、林業もやっていて。糸島の森、地域の森のことで、市役所の仕事もさせてもらっていて、その観点からいろいろ聞いていたんですけど、まさに、林業って100年、200年の話なんです。

今、糸島では全然、林業とか増えていないんですけど、たとえば吉野とかという有名なところは、何で増えているかというと、ひいじいちゃん、ひいひいじいちゃんが植えていった木を、出している。そこの人たちは、今、切った木をまた植えるときに、自分の孫とかひ孫とか玄孫のために植えているという感じでやっているんです。鼓の話とか聞きながら、まさに、そういう感じかなぁと。林業というのは、自分が今何かしたからといって結果が出ない。自分が生きているときに結果が出ないので、先のことを見据えてせないかんというのとつながるなぁとか思いながら。

あと、機械のセンサーよりも人間の方が優れているという部分。木工は、今、どんどん、どんどん機械がですね、コンピュータ制御とかで、すごい、電動工具とかも良くなっている。昔の人はそういうハイテクを使っていなかったんですけど、今よりも優れたものを作っていたりするので、それは結局、人間自身のセンサーがすごく優れていたんですよね。今でも、コンピュータが、たとえば定盤っていって、鉄板の、まったくの平面とかを作るのも、コンピュータ制御で一回機械が作ったのを、結局人間が最後、磨き直さないときれいな平面が出ないとかという。今のところ、世界中では、コンピュータよりも優れたセンサーは人間の方が持っているというのがあるなぁと。

あと、乳酸菌の話で、一回呼吸を取り入れたのに捨てたという話で、30年ぐらい前、フランスかどこかの映画で、『すばらしい緑の星』だったかな。地球よりも文明のある惑星があって、地球にときどき関与していて、地球よりも先に進んでいるんだけど、文明を捨てたというか。たまに地球に指導に行くんですね、その惑星から。言語はですね、テレパシーでつながっていて。で、地球はどんなだって聞いたら、「こんな、こんな、こんなで。」「まだ通貨とか使ってるんだ」みたいな。

ドミニク:「遅れてるー!」みたいな。

フロアB:そう。すごい進んでいるんですけど、何というかな、原始的な暮らしをわざと選んでしているという。だから乳酸菌の話も、通じるものがあるなぁとか思いながら。僕の中では、こういう話を聞いたのが、自分の中で発酵だなと思って。

会場:(笑)

フロアB:感想ですけど。

会場:(拍手)

ドミニク:ありがとうございました。感じ入ってしまいました、ごめんなさい。こんな映画があるんですね。そうなんですよね。

いま、デザインという考え方、デザイン思考が大事だって、いろんなところで使われていると思うんですけど、僕、本当にそうだと思っているのが、デザインって、まだないものを考えることができる方法論だからなんですね。この映画みたいな世界を考えることもまたデザインなんですよね。それを、ありえないかもしれないけど考えることで、逆に、今、自分たちは何を大切にしたいのかということを浮き彫りにさせてくれることだったりする。ちょうど、あの話しますか?シュワの墓所の。宮崎駿の。

城:あぁ!

ドミニク:昨日の夜、城さんと深酒しながらいろんな話をしていて、宮崎駿さんは皆さんご存じだと思うんですけれども、風の谷のナウシカという漫画がありまして。原作版、全部読んだという方? おっ、すごい、結構多い(笑)。

あの物語の最後に、シュワの墓所という、墓が出てくるんですけども、そこの墓守というのが実は、人工知能生命みたいな存在なんです。彼は何をしているかというと、今いる人類よりもっと賢く生まれるはずである人間の卵、おそらく、そう書いてはいないんですけど、遺伝子工学ですごく闘争本能とかをやわらげられて、争わず、仲良く暮らせる人間の卵を守っている。

どうしてあの大きな蟲とか、腐った海=腐海というものがあるかというと、過去の人間が、土壌汚染をしてしまって、それを浄化する人工的なシステムで、今頑張って生きているナウシカたちは、もう滅びないと、新しい人間にスイッチされないという仕組みなんですね。ナウシカは、(ごめんなさい、ネタバレしちゃってOKですか? OKですね?)最後に、そんな未来を私たちは望まないと言って、未来の人間の卵を潰して墓を破壊するんです。

その問いかけって、今、すごく切実になっている気がしていて。つまりどんどん便利に、機械に任せて、効率よく社会を回すという方向にきていて、それを便利だと思ってしまう自分もいる反面、本当に望んでいる変化なのかとかということを、こういう場にお呼びいただいて、こういう環境の中で時を過ごしてみると、いつも思わされる。

だから、今、僕たちは欠陥だらけの存在かもしれないけれども、それを持ったまま、人間を否定するでもなく、礼賛するでもなく、自分たちを大事だと思うことと一緒に生活していく。そのために、技術を使う。それは発酵というのも技術だし、ITというのも技術だから、そこをすり合わせていくということは、全然可能だし、面白いことだと思う。

12. 1000年を超えるテクノロジー?

フロアC:私、糸島に住んでいるんですけれども、福岡市内で、シュタイナー学校の先生をしていて。子どもたちを、9年間持って、一人の担任が9年間教えるという学校で子どもたちと一緒に過ごしているんですが、教育ということを考えたときに、どこぐらいのスパンで、教育を考えるかということがあって。

100年という風にさっきおっしゃっていたんですけど、実は感覚的には、日本人は、1000年を超える文化を、たとえば法隆寺を建てるときには持っていたわけですよね。今は生きている現代人、私たちが、1000年を超える建築物を作れるほどの生き生きとした感覚を持っているのかというと、そこはちょっとできていないという気がして。

今日の話を聞きながら思ったのは、両方が必要なのかと思ってですね。私が子どもと向かい合ったときに、1000年を超える文化を作れる大人になるために、何が手伝えるのかと考えたときに、テクノロジーというか技術と、研ぎ澄まされた感覚というか、生きた感覚の両方が教育の中では必要だと。

1000年後にパソコンが残っているかなとか、Googleサーチが残っているかなというのを、毎年考えています。1000年後にGoogleサーチがあるのかなって考えたときに、それを超えるものを、子どもたちに作らせてあげたいと思ったときに、ここのアートを見たときに、なんかちょっと、これかなみたいな感じがすごくあって。

お聞きしたかったのは、1000年を超えるテクノロジーがあるとしたらなんだと思いますか?

城:未来に1000年って考えると、結構難しいところもあるとは思うんですけど。

録音の歴史というのが、21世紀に入って、何十年か早まったんですよ。というのは、20世紀はエジソンが一番古かったんですけど、その前に、フォノトグラフという装置をフランス人のレオン・スコットという人が作っていて、それは何かというと、音の波形を絵として記録するために装置だったんです。地震の波形みたいな。なんだけど、21世紀に入って、その波形の絵だけは残っていた。それをコンピュータで解析したら、そこから、フランス民謡の「月の光に」という曲なんですけど、歌っている声を再現することができたというのがあって。数十年、録音の歴史が古くなって。

そこから先は結構ファンタジーになるんですけど、さっき縄文土器の話とかをずっとしていたんだけど、ろくろを使って土器を作っていたと。そのろくろを作っていたときの状況というのを全部、コンピュータで解析できたとしましょう。網目を、棒か何かで入れていたとしたときに、それを全部解析できたとしたときに、それでも残っている微妙な振動みたいなのは、果たして何なんだろうというと、そのときに、周りにある音が、そこの振動として記録されているのではないかみたいな。だから、全部逆解析すれば、その、数千年前の土器を作ったときの音というのが聞けちゃったりするんじゃないの? という。

それはちょっと飛んでいますよ、かなり、いろいろ解決しなきゃいけない問題はあるけど。でもそういうことすら考えさせてくれて、そうすると本当に、1000年とか、2000年とかのテクノロジーというのが、逆にね、未来というよりも過去の方にですけど、行けるような気はするし。まさにDNAの解析とかって多分そうで、ジュラシックパークの映画できたとき、あれ無理でしょだったけど、今、結構リアリティがあって、あと何年か経ったら本当にできちゃうんじゃないかとすら。

ドミニク:この間、なんか、マウスか何かのiPS細胞で、精子と卵子を作って受精をできていましたね。結構、衝撃的なんですけど。

城:というような方向で、それが良いか悪いかは別ですけど、1000年のテクノロジーというので言うと、そっちの方向は、結構ここから僕らが生きている間でも、いくつかの領域において、見えてくるような気はする。でも、それが良いか悪いかはまた別の話ですけど。

ドミニク:それ熱いですね。本当のメディア考古学。

城:縄文土器はね。ジュラシックパークはもうちょっと倫理的なこととかで、いろいろ考えるけど。

ドミニク:城さんは、以前、岐阜にいらっしゃったときに、すごい好きなプロジェクトをやっていて、「車輪の再発明プロジェクト」という。メディアの歴史って学ぶと面白いのが、いろんなへんてこな発明というのがあったりして、変な特許とか残っているんですよね。100年前のアメリカの特許とかですごい面白かったのが、人間がしゃべると、口から吹き出しが出て、しゃべる言葉がリアルタイムでバーッと出てくるみたいな特許とかあって、それどうやって実現するんだってことは一切書いてないんですけど(笑)。

でもそういう過去の妄想を調べていく。どうしてそういう時代にそういうアイデアが出てきたかということを考えたり、それを今復活させたらどうなるんだっていうことを考える。さっきの乳酸菌が、好気性代謝を一度獲得して捨てたみたいに。現代の情報科学では車輪の再発明は無駄なことであり、忌避すべきものだって教えられるんですね。だけど、本当はそうじゃないんじゃない?という問いが大事。自分たちの辿ってきた道筋を、疑いの目で一回再検証してみると、もしかしたら別の、よりよい未来(つまり現在)があり得たかもしれない。そしてそれを今やってみると、実は、すごく意味がある

僕たち膨大な歴史を持っているわけですが、その掘り甲斐のある歴史を研究しながらも、1000年後にどういう物が残るというよりは、どういうものが残ったらいいか、自分は嬉しいかという、そういう欲望や希望というところを研ぎ澄ましていくのも、今、すごく大事な時代になっていくんだろうとは思っています。(了)

中村美亜 研究室 Mia Nakamura's Lab

九州大学大学院芸術工学研究院 中村美亜研究室のウェブサイトです。文化政策、アートマネジメント、アートとケア、アートベースリサーチなどの研究を行っています。これらの分野の大学院修士・博士課程の学生を募集しています。