2016年には『地域アート—美学/制度/日本』(堀之内出版)という本が出版され、日本のあちこちで「アートは地域の力になる」、「いや、アートは地域のためにあるのではない」と喧々諤々の議論が巻き起こりました。街の中に脈絡なく置かれたアートが、街の活性化に貢献しているかと問われれば、そのようには思われませんし、地域の人と一緒に表現活動したものが、どれもアートだと言われれば、それは違う気がします。その一方で、地域と協働する創造的なアート、地域に活力を与えるアートは確実に存在しているようにも思われます。 地域と深く関わるアートプロジェクトが活発になってきた現在、どうすれば地域とアートが幸せな関係を築くことができるかを考えることは重要でしょう。ところが、実際には、あまり建設的な議論にはなっていません。
アートとは何か?これまでにも多くの哲学者や歴史家が定義を試みてきましたが、万人が納得できる答えは見つかっていません。何がアートなのかを端的に定義するのは容易ではないのです。しかし、アートが社会でどんな役割を担っているかと問われるなら、ハードルは少し下がります。神野真吾さん(千葉大学准教授・芸術学)は、「感性に基づき、いまだ価値の定まらない何ものかを生み出し、その価値を未来に向けて問うものだ」と定義しています(『山梨日日新聞』2016年12月15日)。私は、もう少し抽象的に「世界の見え方や関係性を変える仕掛け」と言っています。重要なのは、これまで顕在化していなかった価値に何かの形を与えることで、私たちの認識や存在の仕方を揺さぶるという点です。
ただし、アートは合目的なものではありません。芸術社会学では、アートを「アフォーダンス」(可能性を与えるもの)と捉えます。たとえば、駅前にある大きな裸体像は、有名彫刻家による芸術作品だとしても、彫刻に興味のない人には待ち合わせ場所の目印でしかないかもしれません。裸体像に憧れを抱く人もいる一方で、嫌悪感を抱く人もいるでしょう。一方で、日差しの強い日には、日よけとして役立つことがあるかもしれません。アートがどう解釈され活用されるかは、それが置かれた文脈や、それを活用する人によって変化します。作品の意味は、それを取り巻くコンテクストと不可分なのです。とはいえ、裸体像は、地図や時計と同じ役割を担うことはできませんし、電車やバスの代わりになるわけでもありません。アートは解釈次第で何にでも使えるというわけではないのです。つまり、アートは解釈や活用の範囲(=可能性)を示唆する器(うつわ)のようなものなのです。
実際、アートの意味は、アート単体によってもたらされるのではなく、コンテンツとコンテクストのかけ合わせによって決まります。もう少し厳密に言うと、コンテクストには、作品の置かれる社会的コンテクスト(地理・歴史的等の外的コンテクスト、以下「コンテクスト」)と、個々人がもつ経験的コンテクスト(意識的・無意識的記憶や知覚の発達状況、以下「メモリーボックス」)に分かれるので、コンテンツ、コンテクスト、メモリーボックスのかけ合わせによって決まると言う方が正確でしょう。数式を使って書くと、次のようになります。
アートの意味 = コンテンツ × コンテクスト × メモリーボックス
このように、アートがどのよう意味をもつのかは、それがどんな社会的コンテクストに置かれるのか、どんな経験をしている受け手に受容されるかによって大きく異なります。とくに、これまでアートにあまり親しんでこなかった人ほど、アートの意味はコンテンツやメモリーボックスに大きく左右されます。 「アート」と一口に言っても、それが作品展示なのか、それとも作品を生み出すプロセスも含めるのかによって、その意味するところは大きく異なります。また、地域とあまり関係のない芸術家によって作られたのか、地域のさまざまなステークホルダーとアーティストとの協働作業を通じて作られたのかによっても、もたらされる効果は変わってきます。
さらに「地域」の変化と言っても、地域への誇りが高まったり、ブランディング効果が生まれるというように認知のされ方が変わるのか、それとも、経済が活性化したり、交流人口が増えるというように、地域のあり方そのものが変わるかなど、いろいろです。 そこで大切になってくるのが、「編集」という視点です。地域にアートの場をデザインするアートマネジメントを「編集」という視点から捉えなおすと、地域のリソースや文脈を知り、そこに生きる人たちの記憶に触れ、それらを整理・統合しながら新しい形に統合していくというプロセスが見えてきます。
(九州大学ソーシャルアートラボ 平成28年度活動報告書から転載・編集)
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