芸術は必要か?

20世紀後半、芸術は趣味や余暇の対象で、豊かさを象徴するものと考えられていました。たしかに「芸術作品」なんかなくても、私たちは生きていくことができます。しかし、非言語コミュニケーションを基軸とする「芸術的な表現活動」は、単なる豊かさの象徴ではなく、異なる人間が社会の中で共存していく上で不可欠なものであることが、近年のさまざまな研究からわかってきました。

とくに人間の知覚や認知のメカニズムへの理解が深まり、情動コミュニケーションが「ミラーニューロン・システム」を通じて行なわれることが明らかになってくると、非言語コミュニケーションの重要性が再認識されるようになりました。ミラーニューロン・システムというのは、他の人(もの)の行為(動き)を見たり聞いたりしていると、まるで自分がその人(もの)であるかのように、鏡のような反応を引き起こす神経系のことです。人間にはこうした神経の作用があり、それが他者と自分を結びつける重要な役割を担っていることが示唆されているのです。

 芸術的な表現活動はこの神経系の働きに基づくコミュニケーションであり、同時に、この神経系の発達を促すものでもあります。たとえば、①芸術表現は、類似や連想によって受け取り手の共感に直接働きかけることができます。そのことによって、しばしば誤解を生みつつも、言葉では表現の難しいことを直感的に伝えたり、同じ言葉を解さない者どうしの交流を促したりします。また、②協働の制作や表現は、他者と体験を共有する機会となると同時に、その作品は、他者とのつながりを物語る記憶の結晶となります。ところで、私たち人間は、他の誰とも異なるユニークな存在でありたいと望みながらも、孤立を恐れ、誰かと仲間でありたい、共感されたいという欲求を持っています。③芸術表現は、どんなオリジナルなものでも、先人が築きあげた文化や身体感覚を土台にしているため、この人間の両義的な欲望を叶える方法としてもうまく機能します。

人間どうしがともに社会で生きていくためには、論理的なコミュニケーションだけでは不十分です。実際、理性とは異なる共感ベースのコミュニケーション・ツールをたくさん持っているほど、社会で生き抜いていくことは楽になります。類型化され、定型化された表現を身につけるだけでなく、新しい共有の表現を他者とともに創造し、共感し合うことで、私たちは生き抜く術を獲得することができるのです。それは、価値が多様化し、政治や経済だけでは解決できない社会的課題が山積する現在において、まさに必要なことではないでしょうか。

(九州大学ソーシャルアートラボ 平成27年度活動報告書から転載)


中村美亜 研究室 Mia Nakamura's Lab

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