映画『LISTEN リッスン』は、全編が無音のアート・ドキュメンタリーです。耳の聞こえない聾者(ろう者)が音楽の経験について語り、自ら「音楽」を奏でます。福岡アジア美術館で行われた上映会では、共同監督の牧原依里さんと雫境さんをお招きして、映画を作ったきっかけ、音楽とは何か、聴者と聾者は分かり合えるのか、などを伺いました。
- 日時:2016年10月1日 14:00~16:30(上映後にトークイベント)
- 場所:福岡アジア美術館 あじびホール
- ききて:中村美亜(九州大学大学院芸術工学研究院准教授)
- 主催:福岡市、(公財)福岡市文化芸術振興財団、長津結一郎研究室
- 共催:中村美亜研究室
- ゲスト:牧原依里(映画『LISTEN リッスン』共同監督)、雫境(映画『LISTEN リッスン』共同監督)
1.映画を作ったきっかけ
中村:最初に、映画を作ったきっかけについて聞かせていただけますか?
牧原:映画監督の牧原依里といいます。東京から参りました。いつもは会社員として勤めております。映画づくりを始めたのは4年前からです。二足の草鞋を履いているという感じです。この映画の製作は私が発案したのですが、3年前ぐらいから撮りたいという考えが芽生えてきました。
私は小さい頃から音楽ってなんだろうと疑問を抱いて育ちました。私の両親はろう者です。手話で話をする様子を見て、間とかいうものを身につけてきたんですね。小学校3年になって、聴者の学校に転校しました。聴者の子たちが話しているのを見て、リズムなどの違い、「あ、ズレがある」っていうことを感じたんです。それから、音楽というものにいろいろ出会うようになりました。
私は映画を観るのが好きなんですが、その中にいわゆるミュージック映画があります。それが私の心に伝わってきて、やっぱり楽しめます。でも授業の中で先生がピアノを弾いて、私の手をとって、振動を直接体感させられたことがあります。「これが音楽だよ」と。私はそうなんだと思いつつ、違和感が拭えなかった。「振動で音楽が伝えられるものなの?」と。
こうして「音楽って何だろう」と私の中でもやもやしながらそのまま成長していったんですけれども、私が大学生の時に、ろう文化の一つである手話詩、サインポエムに出会いました。サインポエムは、ろう文化の中にある芸術の一つなんですけれども、ご存知でない人たちがたくさんいらっしゃると思います。そもそも手話が言語であると知らない方も多いのではないかと思います。サインポエムは、聴者の「詩」ですね、それと同じようなものです。音韻というものを使って表現します。ただし、このサインポエムはLISTEN リッスンとはまた別物です。
そのサインポエムを目撃した時に、私はそこから繰り出される言語ではなく、醸し出された「非言語」に震えたんです。「ああ、これだ!これ、ろう者の音楽とつながるかもしれない」と直感があったんですね。このエッセンスをもっともっと引き出していって、昇華させたいと思ったわけです。そして、雫境さんと知り合いました。そのあとに紆余曲折がありまして、一緒に映画をつくりましょうということで、映画製作を始めました。
雫境:大学のときに、舞踏(舞踊の一つのジャンル)を始めました。音楽は、私は聞こえませんので聴いても分かりません。補聴器しても聞こえないわけです。音楽は、見るだけで分かっていましたが、聞くということは分からなかった。見て、楽しむことは分かりますけれども。
踊りの世界に入ってびっくりしたのが、舞踏は音楽に合わせて踊るとは限らないということですね。舞台で音楽は流れるけれども、あくまでもBGM、背景のようなものである。なので、音楽に合わせて踊るものではない。いろんな楽器もあるけれども、踊りの方に音楽が合わせてくれる時もあることを知って、「あ、ろう者でも、音楽に頼らずに、自分の心のままに踊ることができるのでは」と思い始めたのがきっかけです。
その後、牧原さんと出会って、ろうの音楽みたいなことで話をしたときに、彼女とは違う表現方法ではあったけれども、奥深いところでつながりがあるんじゃないかと思ったので、映画を一緒につくることにしました。
2.音楽と「音楽」
中村:今回のこの映画をつくるときに、台本はあったんですか?
牧原:台本はありません。何といえばいいかな。方法としては、「とにかくやってみよう、行こう!」みたいな感じですね。ろうの音楽が何かは、私たちは正直に言って分かりません。ろうの世界にはそういうものがないので、二人で「あるんじゃないかな?」という感じで、期待していたわけです。ともかくスタートしようということでしたので、台本はありません。自分の中で何か持っていると思った人を選んで、撮影をしました。
雫境:出演者には、ほとんど初めから、ゼロからお任せして動いてもらいました。わからない人に対しては、「こういうのはどうかな、たとえば……」ということで、こちらが表現してみて。「たとえばこういうのはどうかな。試してみて?」みたいな方法でやってみて。ちょっとずつ指導しながら、後はお任せして、ある程度の形を出してもらい、その形にスピードや長短をつけるようにアドバイスして。ほとんど即興的な形でやってもらいました。
牧原:出演者に高齢の方がいましたが、昔から有名な、もう20年、30年、40年前からやっていらっしゃる方です。サインポエムをやっている方です。それを知っていたので、私もお願いしました。
中村:もともとサインポエムをやっていた方以外は、こういうことをするのは初めてだと思うんですが、どういう風にお願いしたのですか?音楽という言葉はどういう風に使いましたか?
牧原:出演者はほとんど私たち二人の知人です。知らない人は誰もいません。なぜかというと、実際に、初めてというか、ろうの音楽とは何なのか……と一緒に考えていくことをしたからです。もう本当に自由に、無意識のうちにやってもらいました。後でそれを見たら、音楽に見えた。
どう言っていいか分からないんですけれども、私たちはいつも見ている「それ」を表す固有名詞がない。その言葉に代わる言葉として音楽を使っている。「音楽」(鍵括弧つき)みたいな形で。そういう風に見えた、そういう風に感じた、ということです。ろう者たちは日常から無意識に音楽のようなものをふと表現したりしています。ですので、きちんとこうしましょうって意識的にやってもらうよりも、無意識のままでいいですと言って、そこから引き出す方法をとりました。このやり方でも限界はありますが、初めから、こちらからいろんなものを出しても、なかなか難しかったと思います。
ほとんどの方がろう学校を卒業していました。ろう学校には音楽の授業があります。皆さんご存じかどうか分かりませんが、ろうの先生じゃなく、聴者の先生が聴者の社会の中の音楽をろうの生徒に教えるんです。ろうの生徒たちは、それを「あぁ、音楽はこれなんだ」ということで覚えて、育ってきています。なので、頭の中にある音楽というのは聴者の音楽なんです。
ですので、映画は、ゼロからやるようなものでした。「とにかくやってみよう」「分かった」ということで、一度やってもらう。そうしながら、他のいろんな例を、たとえば外国で有名なろうのサインポエマーの方の動画を見たりしながら、少しずつ進めていった感じですね。編集も2年かかりました。
雫境:先ほどの説明の中で、音楽という言葉がありましたが、私たちは、一般的な意味での音楽という言葉を使っていません。「音楽」(鍵括弧つき)みたいな形なんです。あえて言うのであれば、そういう説明ですね。たとえば、時間の経過の中で、動きが高ぶったり、落ち着いたりという波がありますね。それが、音の場合にもあるらしい、メロディというものであるらしい。でも私はそれが分かりません。実際、演じている方も、高ぶったり落ち着いたりっていうのが、メロディみたいなものになって見える。そういうふうにして、「音楽」を表現しているわけです。
3.音楽の固定観念
中村:演者とやっていく中で、一番難しく感じたのはどういうことでしたか?
雫境:監督をする側には、「音楽」に対するイメージがあるんです。「音楽」の概念というものが。しかし、多くのろう者にはそれがありません。補聴器で聞こえて、機械的な音は入ってくるかもしれませんが、本当の音とは、どうでしょうかね。違うと思います。なので、演者の人がずっと子どもの頃から持っている、ろう学校の教育の中で身につけた音楽の固定概念を壊すのが大変でした。
中村:それはどうやってなさいましたか? なぜ、そういうことを質問するかというと、これは耳の聞こえない人だけの話ではないと思うからです。映画の中で、学校で音楽を習ったときに音楽を嫌いになったっていう話がありましたが、それは耳の聞こえる人でもよくあることで、実際私は学校の音楽は大嫌いでしたし。音楽の授業は嫌いだけど、音楽は好きだっていう人も多いと思うんです。聞こえる側のわがままかもしれませんが、どういうことをなさったのかをお聞かせいただければと思います。
雫境:実は映画を作る際に、ろう者はどうして音楽が嫌いなのかということを考えました。映画を上映した後に、いろいろな聴者とお話をしていて、「あ、聴者も嫌いな人がいるんだ」と分かりました。嫌いというか、たとえば、ロックだけは好きっていう方はいらっしゃいます。好き嫌いはいろいろありますよね。「あぁ、なるほどな」と思いました。
音が分からない人に対して、どのような方法で引き出していくかということなんですが、たとえ話で言うと、木がありますよね。で、風が吹くと木が揺れます。それを見て、どう感じるか。揺れた様子をそのまま自分の体の中に入れて、どう感じていくか。水が流れます。それを見て、どう思うか。とにかく、見て、感じる。それをどう体で表現するかということを話した覚えがあります。他にもいろいろお話はしたと思うんですが、忘れてしまいました。
牧原:ろう者は、音が分からないんじゃなくて、ないだけなんですね。音が分からないということではなくて、音の固定概念がないということなんです。それがろう者の特色なんです。聴者は、音という概念を持っていると思いますので、この映画は、聴者、特に音の固定概念を持った人が見ると、いろいろ不安になるというような声も聞きました。
出演者の皆さんには、音に合わせるわけではなく、音の概念を壊していく、自分がいつも見て心地よいと無意識的に感じているものを表現してもらった。この心地よいというのを表現してもらうのが非常に大変でした。理由は、聴者は音楽の概念やその表現方法を授業などで笛やピアノ、太鼓や合唱などを習っている。でも、ろう者はろう者の「音楽」を習っていないんですね。そもそもこのろう者の「音楽」そのものの存在をこの映画は問いかけている。いわゆる、何も土台がないところから始まっていったので、それをどうしていくかが大変でした。
中村:雫境さんは、ずっとダンスをやっていたとお聞きしたんですけど、ダンスと映画の「音楽」では、どういうところに違いがあると考えていらっしゃいますか?
雫境:言葉を選ぶのがちょっと難しいんですが。私がやっているのは舞踏というものです。踊りの中にいろいろありますが、その中の舞踏というものをやっています。舞踏というのは、バレエのように踊るのと違って、腰を落として、足も地面に着けて踊るというものです。
踊りは、一般的には音楽が最初にあって、それに合わせて踊るというイメージを持たれる方が多いと思います。まず歌があって、その後に踊りがあるという感覚です。それが踊りなんですが、ろう者の「音楽」といえば、自分の感じたことを体全部で表現をする。そういう意味で、ちょっと音楽に近いものがあるかなっていう感じです。
牧原:聴者の踊りを見て、いいなと思うときもあります。でもその踊りは聴覚的音楽に合わせて作られたもの。つまり、聴者は音を聞いて、踊りにつなげていくわけですよね。私は身体や顔の踊りなどを見るんです。
ただ、ドイツにあるピナ・バウシュ舞踊団というのがあります。私はすごく好きなんですけれども。以前、映像を見ていたら、たまたまそのとき、手話を使って踊っていました。私も初めて見た時は手話を使っているとは思わなくて。でもすごく懐かしい、音楽のようなものが見えたんです。これは手話を使っているってわかりました。
言い方はちょっと失礼かもしれませんが、聴者の手話歌とはまったく別の次元です。手話のようなものが音になっているんですね。それを見たとき、「あ、これはいける!」と。聴者の方にこの映像について聞いたことがあるんですけど、その踊りを見てもどこが手話なのか分からないと言っていたので、「へぇ」と思って。あぁやっぱり、ろう者の見方と聴者の見方は違うんだなということを感じました。
4.ろう者の世界と聴者の世界
中村:私は、この映画はろう者だけでなく、聴者にも向けて作られたと思っていたのですが…。
牧原:実は、ろう者のために作りました。聴者の方のために作るという考えはなかったです。結果的に、聴者もろう者も関係なく観ることができるということになりました。何と言ったらいいんでしょうか、私たちがろう者のために撮影した結果、逆に聴者の世界でも受け入れられたんですね。聴者の世界、ろう者の世界、それぞれ化学反応が生まれた。面白いと感じました。
中村:それは驚きです。私は、牧原さんと雫境さんは、ろう者や聴者の両方に訴えるものを作ろうとしていたと思っていたんです。ろう者のものを作りながらも、聴者を刺激するようなことをしたいってお考えになっていたんじゃないかなと思っていました。ですから、今、違うと聞いてびっくりしました。聴者の人を刺激する内容がたくさんあると私は感じたからです。
そこで、あらためて質問させていただきたいんですが、ろう者と聴者の反響にはどういう違いがあったんでしょうか?
雫境:ろう者、聴者関係なく、はっきりしたことは分かりません。ですが、聴者でもろう者でも、見て感動する、音が無くても見て感動するということがありました。ろう者の中でも、かつて音を聞いた体験がある人もいます。その自分の持っている体験と映画が結びついたという話を聞いたことがあります。
何と言えばいいのかちょっと難しいんですが、ろう者の中には、音楽が嫌いという、トラウマがある人がいます。トラウマを持っている人が、テレビを見ても映画を観ても分からないという、受け入れられないということがあります。私も小さいときからそのように感じていました。でも今は、映画があって、私は嬉しいっていう人もいました。
いろんな意見がありました。聴者とろう者を区別するということは、まだちょっと、私にも難しいですね。いろんな見方があって、いろんな意見を聞いて、そのうち分かってくるんじゃないかなと思うんですが。科学的なデータ分析とかはしていないので…。
牧原:作品を作って配給すると決まったときに、聴者、ろう者関係なく、いろいろな批判があるだろうと思っていました。それを覚悟して配給しました。ところが実際は始まってみると、意外にも好意的な意見や感想をたくさんいただきました。
その中で私としては意外だった部分があります。二つありまして、一つめは、聴者、ろう者関係なく、視る人、聴く人、感じる人、三つの捉え方がそれぞれいたこと。ろう者でも聴く人がいます。聴者でも視る人がいます。なるほどと思いました。
二つめは、違いではなく、改めて再認識させられたことですが、「音がないだけの世界」と「ろう者の世界」は違うと感じました。前者は、ろう者、聴者関係なく、音が無い世界がベースになっている。その奥に、ろう者の世界がある。これはろう者の魂だとおっしゃった方もいらっしゃいました。それはろう者を知らない人にはなかなか掴めないことです。
ろう者といっても、様々な人がいて、環境も違うと考え方や感じ方も異なります。出演者が今まで紡いできた歴史—その人が今まで視てきたもの、手話との歴史、今までの経験や背景などが画面に醸し出されている。聴者の音楽と同じです。
中村:映画の最後で「なんと人間的な」という字幕が現れました。これが最後に出てきて、非常に重いなぁと思ったんですが、その言葉を使った想いを聞かせていただければと思います。
牧原:その言葉ですが、いろいろな意見を言われます。あれは、最後に何か入れた方がいいということで、雫境さんと話し合って入れました。何と言っていいか難しいんですけど、人間はアンビバレントな生き物です。音がある/ない、良いこともあれば悪いこともある、といったようにいつも矛盾を抱えています。私たちから見ると「音楽」だけれども、矛盾がある。でもそうせざるにはいられない。それが人間の性ということかな、と。皆さんで自由に解釈していただければと思います。
雫境:この映画で、ろう者の「音楽」はこういうものだと言いたいわけではありません。これから皆さんと一緒に考えていくきっかけにしてほしいということです。この映画の最後は、「これで終わり」としたくないわけです。「なんと人間的な」という言葉を出すことで、考えが広がるようになればいいと思っています。
たとえば、この世界で、悪いことをする人がいても、別の世界では、それは良いことかもしれないというような矛盾、その矛盾の世界、それが「人間的な」ということだと私は考えています。発案は牧原さんですが、それを見たときに、すごく考えがひろがると思ったので、この言を最後に入れることに決めました。
5.質疑応答
フロア1:日本語には、音に関係する言葉、単語がいろいろあると思うんですが、その中で、「うるさい」とか、「静か」という言葉があると思うんです。聴者は、そのような感覚は分かるんですけれども、耳が聞こえない人、音が分からない人もそのような感覚を感じることはあるのでしょうか?
雫境:私の経験から話します。私は7歳、8歳ぐらいで補聴器を外しました。今の補聴器は耳掛け式で、技術もずいぶん向上していますが、35年前は昔の補聴器ですから、ポケット型の、箱型の補聴器を二つつけていました。鼓膜が振動すると痛いんです。鼓膜の振動まではいくんですが、脳までは入りませんでした。音としてちゃんと分からないんですね。その頃は、聴者の学校に通っていたのですが、遊びたい盛りですから、箱型の補聴器は邪魔で仕方ありませんでした。それで外しました。35年前なので、音の記憶はあまりないです。
うるさいとか静かとかは、見て、想像して、音ではなくて、言語的に「うるさい」だろうな、と想像するだけです。本当に耳に聞こえてうるさいということではない。たとえば漫画の本に、擬音が書いてありますよね。絵に擬音がついていますね。それを見て、想像するだけです。だから実際に聞いてというより、その漫画とかを見て感じる。
「シーン」っていう擬音があります。漫画にはよく出てきます。たとえばドアを開けたときに誰もいない、「シーン」って書いてありますよね。それは「シーン」っていう音があるのかと自分は思っていました。それぐらい。そういう違いですかね、ろう者にとっては。
牧原:私の場合は、誰かが来たときに、「うるさい」と思うことがあります。何かが視覚に入って、動きが見えると、「うるさい」と。「うるさい」という使い方が、ろう者と聴者じゃ違うんじゃないかと思います。聴者の場合は音でうるさいけれども、ろう者の場合は視覚的にザワザワしている、うるさいと感じる。「シーン」とか「静か」っていうのも、それは同じように感じます。言葉に対しての考え方、捉え方が違うんじゃないかと思います。
雫境:一つ加えると、手話で「うるさい」というのがあります。目のところを指して「うるさい」という表現をします。目で見て、視覚的に何かこう、動いて、「うるさい!」というような。視覚的にうるさいという意味で、そういう手話を使います。何かに集中したいときに誰かに呼ばれると、もう嫌、「うるさい!」というんですね。視覚的に、うるさいという感覚があります。
フロア2:牧原さんの言葉の中で、音の無い世界の向こう側にろう者の世界がある、という言葉があったと思うんですが、それは聴者には分からない世界なんでしょうか?
牧原:分からないと思います。私の場合は、「耳が聞こえない人」というよりも、「ろう者」という言い方をしているんですが、説明すると長くなるので、その定義自体は置いておきます。
音の概念を持っている人と持っていない人は、やっぱり、なかなか通じ合えないと思います。近づくことはできると思いますけれども、きちんと伝わるということは難しいと思います。それは、聴者の音楽、たとえばクラシックとかを聞いても分かりません。どれだけ補聴器をつけて聞いてもやっぱり分かりません。踊りを見ても、これは音楽に合わせているのかどうかというのも、やっぱり分からないわけですね。それの逆だと思います。なので、ろう者の音楽はやっぱりなかなか伝わらないと思いますが、近づくことはできると思います。
フロア3:映画を作る際に、一番こだわったシーンはどこでしたか。
雫境:特にこだわったシーンというのはないですね。とにかく感情が醸し出される雰囲気というか空気感ですね。その空気感というのが見えるように撮影しようということでした。それが上手くいくときもあれば、「ちょっと待って!」と時間がかかる場合もありました。その辺りが、こだわりというか。私としては、見えない世界が見えるように、情感が出るように撮るよう心がけました。
牧原:撮影というと2年前になりますので、どうだったでしょうか。そのときのことをちょっと思い出してみますが…。とにかく、構図ですね。それから出演者の皆さんとの信頼関係。みんな本当に心を開くよう努力をしてくれたんです。心を閉じていたらLISTEN リッスンなんてとても無理なんですね。心を開いてもらうことに、こだわりがありました。
場所もですね。基本的に、その人のイメージに合った場所を選びました。例えば海辺に合う人、合わない人がいると思ったんですね。最後に出てきた女性は海辺のイメージがあって。本人に伝えたら、本人も海辺がいいと思っていたと言っていました。そういうものなのかなと思います。自分のイメージで進めるだけではなく、人によってはお互いに話し合ったりしました。
中村:今日、私は「LISTEN リッスン」という映画を自分なりに、自分の方法で非常に感動して観たんですが、トークでは、ろう者と聴者は分かり合えないのか、つまり、ろう者の「音楽」について聴者は理解できないのか、逆に聴者の音楽についてろう者は理解できないのか、ということについて、すごく考えさせられた気がします。
私は、ろう者、聴者に限らず、他人のことは基本的には分からないというふうに思っています。だけど、分からないけど、分かる努力をすることが面白いんじゃないかって。分かったと思っても実は分かっていないことも多いので、誤解しながらも、なんとかやっていくことが大事だと思っています。
特に、芸術的な表現って、すごくいろんな解釈があって、幅があって。誤解を生みながらコミュニケーションをしていくことが、実はすごく面白いところなんじゃないかなと思っています。そういう意味で、今回「LISTEN リッスン」という映画が生まれたことは、理解し合えないながらも、なんとかコミュニケーションをしていくという貴重な機会を与えてくれたということなので、その意味で、監督のお二人には心から感謝したいと思っています。どうもありがとうございました。(了)
0コメント